Entretien avec Daisuke Ejima (para natation) Partie 1 "C'est frustrant de me perdre"
Daisuke Ejima a participé aux Jeux paralympiques d'Athènes, de Pékin et de Londres dans trois tournois en tant que para nageur. Il a remporté une médaille d'or aux Asia Para Games 2018 à Jakarta l'autre jour. Quel chemin avez-vous emprunté pour atteindre ces résultats? Il m'a beaucoup parlé de ses progrès et de ses objectifs futurs.
Koike Kikuchi
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2018/12/07
――ジャカルタで開催されたアジアパラ競技大会2018では金メダルの獲得おめでとうございます!
江島 ありがとうございます。暑かったり毎朝4時に大音量のコーランが鳴ったりと環境面では大変でしたが、結果が出せて良かったです。
――早速ですが江島さんの現在の1日の流れを教えてください。
江島 シグマクシスという会社に所属しています。競技で結果を出し、企業ブランディングにつなげるということが私のミッションです。
ですから普段は出社するのではなく、水泳の練習や様々なトレーニング、コンディショニングをすることが基本です。また、今回のようにメディアの取材を受けることも仕事の一つです。
24時間まるごと水泳の為に使える状況で、毎日の練習は夜に1時間しています。
――練習以外の時間はどうされてるのですか?
江島 午前中はジムで体幹トレーニングをしています。午後は夜の練習のためになるべく疲労やストレスがかからない生活をしています。心身ともに最高のパフォーマンスが出せる状態にすることも選手にとって、大事なことだからです。
――水泳に集中できる恵まれた状況と言えますね。他の水泳のパラリンピック選手はどんな生活なのでしょうか?
江島 私が知る限りでは、所属先の企業に出社している選手は多いと思います。私の後輩の選手も、平日はほぼ毎日出社して昼まで事務作業をし、午後は練習です。ほかの選手も同じようなワークスタイルだと思います。
――シグマクシスに所属される前はどうされてましたか?
江島 大学を卒業し、メーカーの小会社で働いていました。本社で総務人事を担当し、朝出社して定時まで働いていました。特にアスリートという扱いはなく、他の社員と同じ条件で所属していましたので、生活のメインは仕事でした。
でも遠征があると2週間ほど不在になるため、その積み重ねで同期に大きく差がつけられてしまいました。ロンドンパラリンピックの前に、仕事と競技のバランスのとり方に限界が来たと感じました。
確かに仕事は大事なのですが、ロンドンパラリンピックは今しかないと思い、練習に集中したいと考え、退職願いを出しました。ですから大会出場時は無職、シグマクシスに入社したのはロンドン大会が終わった後、2013年です。
――12歳(中1)の時に水泳の練習をしていた時に突然倒れたのですよね?
江島 それまでは健康体で毎日走り回っていました。その日も、練習の前に近所の公園で野球をしていました。前兆があったわけではなく、突然倒れたのです。倒れたことにより、左半身麻痺になりました。
――2000年のシドニーパラリンピックの成田真由美さんの活躍を見て、水泳への復帰を決めたのですよね?もう2度と水泳をやりたくないと思ってもおかしくないなか、なぜ復帰しようと思ったのですか?
江島 倒れたのは、中1の頃でしたので、まだまだ成長過程でした。水泳が大好きでしたが、全国大会に出たいけれど出られなかったという未練もあり、まだまだ夢半ばでした。
障害を負ったので水泳をすることを諦めていましたが、たまたまNHKでシドニーパラリンピックを見て、パラ水泳の存在を初めて知りました。
自分と同じような障害を負った選手が、世界の舞台で戦っている。半ば諦めていた水泳でしたが、もう1度頑張ればこの舞台に立てるかもしれない、と希望を持ちました。
――シドニーパラリンピックを見るまでにどのくらいの期間、水泳から離れていましたか?
江島 半年か1年は離れていました。倒れた後は「なんで自分が?」とずっと思っていました。先天性ではなく、健康だった中での突然、しかも原因不明の病気でしたから。
その時は学校生活も楽しみたいし、水泳もしたいし、漠然と結婚もしたいなと考えていたのにそのほとんどが絶望的になってしまい、暗闇の中にいました。中1男子が受け入れるには厳しい現実でした。
――シドニーパラリンピックを見て「もう1度泳いでみよう!」と思った時には身体はどれくらい動いたのですか?
江島 倒れた当初は寝たきりで左半身の腕や足をつねっても感覚がないくらい全く動かない状況でした。脳梗塞はほほの筋肉がひきつるのです。その為、現在のように上手く話せない状況でした。
その後、半年間リハビリに通いました。学校の授業に出ていない分、リハビリを頑張りました。若かったためかその効果は大きく、徐々に治っていき、復学した時には歩けるまでには回復しました。
手首は色々な神経が複雑に通っているため、完全には良くはならなかったのですが、腕は上下運動が出来るまでには回復したので、日常生活には差し支えないくらいのところまで回復しました。
リハビリをしてた時はシドニーパラリンピックをまだ見る前でしたので、目標は無かったです。正直なところ、生きていく自信を失った瞬間もありました。
でも、自分に負けるのが1番悔しいなと思って。こんなことで人生終わって良いのかと。生きていけば絶対に良いことはある、と根拠のない漠然とした想いがあったのです。
そこからは、治る確証がなくて折れそうになることは何度もありましたが、自分に負けないという一心でリハビリを続けました。
我慢強く続けることで少しずつ良くなってきたので、「動けるようになった。次は歩けるようになりたい」というように、一つ一つ目標を掲げるようになりました。
後編につづく
Photo: Kohei Kikuchi
【江島大佑選手のプロフィール】
1986年生まれ、京都府出身。
3歳から水泳を始める。12歳のときにプールサイドで脳梗塞で倒れ、左半身に麻痺が残る。その後1年間の闘病とリハビリの中で絶望感にさいなまれるも、シドニーパラリンピックの映像を見て再び水泳を始めることを決意。
立命館大学進学後、2004年アテネパラリンピックに出場し初出場で 銀メダルを獲得する。
2006年にはパラリンピックワールドカップ 50m背泳ぎで世界記録を樹立。 2008年北京パラリンピック、2012年ロンドンパラリンピックと計3度のパラリンピックに出場。
現在は株式会社シグマクシス所属のプロフェッショナルスイマーとして競技に取り組んでいる。
江島 ありがとうございます。暑かったり毎朝4時に大音量のコーランが鳴ったりと環境面では大変でしたが、結果が出せて良かったです。
――早速ですが江島さんの現在の1日の流れを教えてください。
江島 シグマクシスという会社に所属しています。競技で結果を出し、企業ブランディングにつなげるということが私のミッションです。
ですから普段は出社するのではなく、水泳の練習や様々なトレーニング、コンディショニングをすることが基本です。また、今回のようにメディアの取材を受けることも仕事の一つです。
24時間まるごと水泳の為に使える状況で、毎日の練習は夜に1時間しています。
――練習以外の時間はどうされてるのですか?
江島 午前中はジムで体幹トレーニングをしています。午後は夜の練習のためになるべく疲労やストレスがかからない生活をしています。心身ともに最高のパフォーマンスが出せる状態にすることも選手にとって、大事なことだからです。
――水泳に集中できる恵まれた状況と言えますね。他の水泳のパラリンピック選手はどんな生活なのでしょうか?
江島 私が知る限りでは、所属先の企業に出社している選手は多いと思います。私の後輩の選手も、平日はほぼ毎日出社して昼まで事務作業をし、午後は練習です。ほかの選手も同じようなワークスタイルだと思います。
――シグマクシスに所属される前はどうされてましたか?
江島 大学を卒業し、メーカーの小会社で働いていました。本社で総務人事を担当し、朝出社して定時まで働いていました。特にアスリートという扱いはなく、他の社員と同じ条件で所属していましたので、生活のメインは仕事でした。
でも遠征があると2週間ほど不在になるため、その積み重ねで同期に大きく差がつけられてしまいました。ロンドンパラリンピックの前に、仕事と競技のバランスのとり方に限界が来たと感じました。
確かに仕事は大事なのですが、ロンドンパラリンピックは今しかないと思い、練習に集中したいと考え、退職願いを出しました。ですから大会出場時は無職、シグマクシスに入社したのはロンドン大会が終わった後、2013年です。
――12歳(中1)の時に水泳の練習をしていた時に突然倒れたのですよね?
江島 それまでは健康体で毎日走り回っていました。その日も、練習の前に近所の公園で野球をしていました。前兆があったわけではなく、突然倒れたのです。倒れたことにより、左半身麻痺になりました。
――2000年のシドニーパラリンピックの成田真由美さんの活躍を見て、水泳への復帰を決めたのですよね?もう2度と水泳をやりたくないと思ってもおかしくないなか、なぜ復帰しようと思ったのですか?
江島 倒れたのは、中1の頃でしたので、まだまだ成長過程でした。水泳が大好きでしたが、全国大会に出たいけれど出られなかったという未練もあり、まだまだ夢半ばでした。
障害を負ったので水泳をすることを諦めていましたが、たまたまNHKでシドニーパラリンピックを見て、パラ水泳の存在を初めて知りました。
自分と同じような障害を負った選手が、世界の舞台で戦っている。半ば諦めていた水泳でしたが、もう1度頑張ればこの舞台に立てるかもしれない、と希望を持ちました。
――シドニーパラリンピックを見るまでにどのくらいの期間、水泳から離れていましたか?
江島 半年か1年は離れていました。倒れた後は「なんで自分が?」とずっと思っていました。先天性ではなく、健康だった中での突然、しかも原因不明の病気でしたから。
その時は学校生活も楽しみたいし、水泳もしたいし、漠然と結婚もしたいなと考えていたのにそのほとんどが絶望的になってしまい、暗闇の中にいました。中1男子が受け入れるには厳しい現実でした。
――シドニーパラリンピックを見て「もう1度泳いでみよう!」と思った時には身体はどれくらい動いたのですか?
江島 倒れた当初は寝たきりで左半身の腕や足をつねっても感覚がないくらい全く動かない状況でした。脳梗塞はほほの筋肉がひきつるのです。その為、現在のように上手く話せない状況でした。
その後、半年間リハビリに通いました。学校の授業に出ていない分、リハビリを頑張りました。若かったためかその効果は大きく、徐々に治っていき、復学した時には歩けるまでには回復しました。
手首は色々な神経が複雑に通っているため、完全には良くはならなかったのですが、腕は上下運動が出来るまでには回復したので、日常生活には差し支えないくらいのところまで回復しました。
リハビリをしてた時はシドニーパラリンピックをまだ見る前でしたので、目標は無かったです。正直なところ、生きていく自信を失った瞬間もありました。
でも、自分に負けるのが1番悔しいなと思って。こんなことで人生終わって良いのかと。生きていけば絶対に良いことはある、と根拠のない漠然とした想いがあったのです。
そこからは、治る確証がなくて折れそうになることは何度もありましたが、自分に負けないという一心でリハビリを続けました。
我慢強く続けることで少しずつ良くなってきたので、「動けるようになった。次は歩けるようになりたい」というように、一つ一つ目標を掲げるようになりました。
後編につづく
Photo: Kohei Kikuchi
【江島大佑選手のプロフィール】
1986年生まれ、京都府出身。
3歳から水泳を始める。12歳のときにプールサイドで脳梗塞で倒れ、左半身に麻痺が残る。その後1年間の闘病とリハビリの中で絶望感にさいなまれるも、シドニーパラリンピックの映像を見て再び水泳を始めることを決意。
立命館大学進学後、2004年アテネパラリンピックに出場し初出場で 銀メダルを獲得する。
2006年にはパラリンピックワールドカップ 50m背泳ぎで世界記録を樹立。 2008年北京パラリンピック、2012年ロンドンパラリンピックと計3度のパラリンピックに出場。
現在は株式会社シグマクシス所属のプロフェッショナルスイマーとして競技に取り組んでいる。