1

Catholique Ma Première Première Pointe La 5ème Reine de Compétition Escudero (Kyoto Sanga FC) Vol.1 "Une enfance pas familière avec les écoles japonaises, le plaisir avance avec le courrier du père!"

韓国Kリーグ、中国Cリーグを経て、2016年にJの舞台に戻ってきた、エスクデロ競飛王選手。インタビュー1回目は、様々なエッセンスを持つエスクデロ選手の生い立ちを伺いました。言葉や習慣に戸惑い、なかなか友達ができなかった少年時代。日本とアルゼンチンの違いから起こる驚きのエピソード。エスクデロ選手、波乱万丈です。 加藤理恵

Icône icône kinggearKING GEAR Département Editorial | 2017/02/07
Kato:今日はエスクデロ選手とも縁の深い、フタバスポーツ大宮店でお話を伺います。  

エスクデロ:地元なので、中学生の頃によく買いに来ていました。あそこの特売コーナーをあさって(笑)  

Kato:凱旋ですね! 日本に来たのはいつ頃なんですか?  

エスクデロ:スペインのグラナダで生まれて、すぐにアルゼンチンに行きました。3~7歳までは日本、7~13歳はまたアルゼンチン、13歳からはずっと日本です。
 Thumb dscf1822

Kato:言葉を覚え始める時期は、日本に住んでいたんですね。  

エスクデロ:はい。家ではスペイン語、学校では日本語だったんですけど、子供ってすぐに忘れちゃうもんなんですかね? アルゼンチンに帰ったら、スペイン語が話せなくなっていて(笑)  

Kato:え! そっちを忘れたんですか!?  

エスクデロ:僕、国を移動しすぎたからか何もかもが遅くて、スペイン語でも日本語でも吃音のようになっていたんです。7歳でアルゼンチンに帰った時は、学校のあと毎日4時間塾に通ってスペイン語を勉強して、1年後にやっとみんなに追いつきました。でもそしたら、今度は日本語を一切忘れちゃったんです(笑)  

Kato:ありゃ!! それなのに、漢字が不可欠な13歳のときに、また日本に帰ってくることになった、と。  

エスクデロ:そうなんです。2度目に日本に来たのは13歳、中1の3学期でした。  

Kato:久しぶりの日本、すぐに馴染めましたか?  

エスクデロ:教科書も黒板の文字も、右側から縦書き。まずそこに苦戦して、書いている事は何一つわからない。黒板の文字を数行写したところで消されちゃう…。イライラがたまりました。

僕は特別頭が良いわけではないけど、アルゼンチンでは人並みに勉強はできていました。でも日本では、名前を書くだけで精一杯。テストの点は全く取れない。そうなると、自分は頭が悪いんだって思っちゃって。  

Kato:屈辱ですよね…。  

エスクデロ:周りもまだ子供だから、深く考えずにバカって言っちゃうんですよね(笑)。日本語が話せなくてもさすがに“バカ”という言葉はわかるので腹立って。「じゃあ君はスペイン語できるの?」って思いました。

でも日本に来ているのは僕で、テストで点を取らなきゃいけないのも僕で、彼らは何も悪くない。僕が日本に慣れなきゃいけない。何を言われても耐えて、いつか見返そうと思いました。  

Kato:格闘の日々だったんですね。

Thumb dscf1857 
エスクデロ:最初はお父さんを恨みましたよ(笑)。アルゼンチンのU-15代表に選ばれ、ベレス(アルゼンチン1部)のユースでもどんどんグレードアップしていた絶好調のところで「はい、日本に行きます」って言われたので。  

Kato:それは悔しいですね。べレスは環境も良かったでしょうに。  

エスクデロ:芝のピッチが21面ある、すごい施設でした。“プロと同じように”と、練習後にお風呂に入らないと帰らせてくれないようなチームで。日本に来てから入ったチームは、当時公園で練習をしていて。

土のグラウンド、着替えはベンチ…環境の違いに戸惑いました。お父さんに何度もアルゼンチンに帰りたいって言って。日本語はしゃべれないし、友達もできないし、サッカーも…。  

Kato:物足りなく感じるかもしれませんね。  

エスクデロ:僕は体をバンバンぶつけるタイプなので、日本ではよくファウルをとられました。「わざと行ってるだろ」「プレーを直せ」って言われるんですけど、僕は「当たり前だろ、それがアルゼンチンのスタイルなんだから」って思っていて。  

Kato:プレーも心も、アルゼンチンとは激しさが違いそうですもんね。  

エスクデロ:日本に来てからも、年に1回アルゼンチンに帰る時は叔父さんが経営しているフットサルチームに参加していたのですが、親の熱気が日本とは比べものにならなくて(笑)。日本ではありえないですけど、フットサル場が全部網で囲まれているんです。親が入ってこられないように。  

Kato:ええ! 乱入してきちゃうって事ですか?  

エスクデロ:たとえば誰かの親が「あの子へたくそだから取りに行け!」って言うと、その子の親が「誰の子にへたくそって言ってるんだよ」って喧嘩になって(笑)。それでもコートではちゃんと試合ができるように、網で囲ってるんです。どこのチームもそうですよ。  

Kato:へぇ! ちなみにエスクデロ選手のお家は、お父さんも元サッカー選手(元浦和レッズのセルヒオ・ アリエル・エスクデロ)、親戚もサッカー選手なんですってね。やはり子供の頃は“エスクデロ家の子”って言われましたか?  

エスクデロ:べレスでは叔父さんのあだ名“ピチ”って呼ばれていました。

Kato:叔父さんはマラドーナともプレーしたとか?  

エスクデロ:そうです。オスバルト・エスクデロという、浦和レッズにも所属していた158cmの人です。79年に日本で開催されたワールドユースで、マラドーナと一緒に戦って優勝しました。81年にはそのメンバーの何人かをボカ・ジュニアーズが集結させてリーグ優勝して、アルゼンチンではすごく有名になったんです。

でも実は僕、マラドーナの事を知ったのはアルゼンチンに帰った後の小4の頃なんですよね(笑)。自分の家族がすごいって事も、その頃はじめて知って。

Thumb dscf1829 
Kato:そんなエスクデロ少年が、日本で頑張っていこうと思いはじめたのはいつ頃ですか?  

エスクデロ:高1の夏休みに頚椎分離症になった時です。日本でもアルゼンチンでもサッカーだけをやっていたから、はじめてサッカーのない生活がやってきて…遊んだんです。カラオケに行ったり、夜遅くに帰ってきたり、まぁ普通の高校生がやるような事なんですけど。そんな生活をしていたら、お父さんにめっちゃ怒られて、家出しました。日本にもいたくない、サッカーもやりたくないって。  

Kato:家出!?  

エスクデロ:そしたらお父さんから長いメールがきて。「サッカーを辞めても、お前は俺の息子だから帰っておいで。どんな時も家族が一緒にいるのが一番。サッカーができなくても、高校をやめても働いても、何をやってもサポートするから、これからも一緒にやっていこう」って。その時にいろんな事を考えました。  

Kato:どんな結論に至ったんですか?  

エスクデロ:お父さんは17歳でプロになったから、僕は16歳までにプロになれなかったらサッカーを辞める。なおかつ日本語の読み書きも、発音も、箸の持ち方も全部完璧に、何一つ指摘されないくらいのレベルになる。そこから…快進撃が始まった(笑)  

Kato:ははは!! お見事でした(笑)

<Vol.2に続く>   http://king-gear.com/articles/259


Coopération de couverture / Futaba Sports Omiya
http://www.futaba-sp.com/author/oomiya


Photo / Hidemi Sakuma



<Je veux le lire ensemble>

Mon Premier Premier Spike Yuins (FC Tokyo) Vol.1 "Je voulais apprendre le style de football japonais avec la recommandation des seniors au lycée"

カトリエの「マイ・ファースト・スパイク」 第4回マテウス(大宮)vol.1 サッカー嫌いの母に隠れてサッカー!?

Restauration "My First Spike" 3ème Dragan Muruja & Nates Pettnik (Omiya) vol.1 La confusion de Beauard à connaître à partir de pointes.

«My First Spike» de Catering 4ème Eduardo Net (Kawasaki) vol.1 «Spike a acheté pour la première fois la« grève »du Brésil