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"Kamoto Kunimori" Le troisième épisode du meilleur buteur du football du Japon "Si vous dites que vous voulez faire un pic avec le type de pied, vous vous fâcherez"

Le football est un sport qui détermine un objectif, Kunimoto Kamoto qui a continué à produire en série des scores comme FW dans les jours actifs à plusieurs reprises pratiqué le tir. L'équipe de défense de l'équipe adverse a déclaré que cette pression désespérée avait poussé M. Kamamoto à arrêter de tirer.

Icône aff20898 d2d2 431d 8b05 0f3c5e5ae91bHidemi Sakuma | 2017/11/16
<Le premier épisode est d'ici. >
<Le deuxième épisode est d'ici. >

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――イメージ通りにコントロールして蹴れるようになったのは、何歳頃からですか。
 

Kamoto:思うように蹴れるようになったのは大学卒業してからだね。入るか入らないかは別で、自分のベストフォームが分からないとね。

最近僕が子供達に、「プレスキックで走り込んでダーッと力一杯膝から下を速くコンパクトに蹴りなさい」と言うね。まずは、自分でどの角度で入って踏み込んで蹴るのがベストなのかをマスターしないと。点取り屋はパスをするのではなく、シュートの練習をしないと駄目だよね。
 

国際試合となればフィジカルが必要で、バランスを保つために腕立て等をちょっとやるだけでも良いね。僕は、走ってきてガーッと片足で踏ん張るから足は太かったよ。野球でも何でも一緒で、土台がしっかりしてないと。

――プレッシャーを感じたことはありましたか。  

Kamoto:ないよ。ボールを配給してくれる人がいないといけないから、ちゃんと出してくれる人がおったのが良かったよね。代表には杉山さん(杉山隆一)みたいな人がいたし、点を取るのはパサーがいないと無理だからね。

自分のところにボールが来たらしっかり止めて、そこからが僕の仕事。だからその為の練習をしてたよ。「蹴って、行け!」の昔からのサッカーをクラマーさんが変えてくれたのが大きかったよね。パサーは沢山いたけど、僕の所に「ボールを蹴って来い」と要求もしてたよ。

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――パサーが沢山いる中で、ゴールを沢山決めていたのは釜本さんだけだったということでもありますよね。 

Kamoto:そりゃ、そういうことだよね(笑)。冗談で言ってたら、本のタイトルになったけど。敵の選手が僕をマークしていても「俺のところに出せっ!」って。「敵がいるから蹴らないじゃない!いても蹴れ!2人いても、3人いても蹴れ!」とね。

ペナルティエリア近くにボールが入った時に、僕はこういう仕事をします、点を入れますよと、チームの皆が分かっていたらパスをしてくれたんだよ。そういうものをチームでいかに作り出すかが重要で、きちっと練習をして試合で点を決めないと信頼がなくなるからね。
 

――スパイクが進化して行く姿を沢山目にしているわけですよね。

Kamoto:そうだよね。アディダスの日本代表の靴はフィット感があって良かったよ。
 

――動き易かったですか。 

Kamoto:動き易いとか動きにくいとかは、僕らに関係ないからね。靴は何でもええねん。  

――靴に対して験を担いでいましたか。 

Kamoto:何にもなかったね。これを履けって言われたら履いてただけ。今みたいに契約するとかなかったしね。僕の足先は細いから、先が細いものが好きなんだよね。

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――足型を計測しましたか。  

Kamoto:当時、アディダスに足型でスパイクを作りたいとか言ったら怒られるよ、「お前、何もんやー!」ってね(笑)。 アディダスとプーマは面白いよな。もともと兄弟で、川を挟んでアディダスとプーマがあったからね。同じような物作るけど(笑)。

1回バンコクでね、プーマの靴を履いてたら、兼松江商の人が慌てて来て「アディダスを履かないで、プーマと契約したんですか?」と言ってきたから、「契約なんてしてないし、アディダスがないから履けないでしょ。」と言ったことがあるよ(笑)。その日の夜に、江商の人がスパイクと運動靴を持ってきたから、次の日から履いたこともあったよ(笑)。  

――現役時代に病気で入院された時は大変だったみたいですね。 

Kamoto:原因は分からないけど、ウィルス性肝炎になったよね。1964年に東京オリンピックがあって、その後に東南アジアに行ってから日本で天皇杯があり、かなり疲れている状態の中で、流行っている病気にかかったんだよね。

ワールドカップ予選にも間に合わないから諦めて、サッカーに関する全ての物を隠してからサッカーを忘れるようにしたよね。退院してから試合に出るようになっても、頭の中にイメージがあるけれど身体が付いていかなかったけど、幸いなことに膝を一回も怪我してないから良かったよね。

――シュートを打つのに大事な膝となりますよね。 

Kamoto:そうだね。今多いでしょ靭帯がどうのこうのと半月板がどうやとか怪我をしてきちっと治さないと致命傷になるからね。足首はどうってことないし怪我の内に入らないよ(笑)。

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――相手DF陣が釜本さんを抑えようと必死ではなかったですか。 

Kamoto:逃げるからやられるんよ。自分からいかないと。ボクシングのカウンターと一緒だよね、バーッと。この足で相手の足をガーッと止める。そうすると、相手の方が痛がるよね。  

――当時のラフプレーのレベルは、どうでしたか。
 

Kamoto:そりゃ、今と一緒でしょ。当たるのはどうってことないよ。タイミングが狂った時に痛いんだよね。相手の足が来予想しない瞬間に伸びてきて当たるとガーンと痛いよね。だから、ドリブルをしてシュートを打つときに敵が来ると思ったら、ボールと相手の足を同時に見る必要があるよね。  

-1番激しい選手は誰でしたか。

Kamoto:1番DFで荒かったのは、宮本征勝さんだね。清雲(清雲栄純)は、パスを出した後にガーンと突っ込んできて、「お前、どこ見てやっとるんや!何してんねん!このやろー!」と言ったことがあるよ(笑)。そんなこと今やったら一発で退場だよね。清雲は、ラグビーやってたからな(笑)。
 

第4話へ続く。


■ Profil

Kunimoto Kamoto (Kamamoto Kunishashi)
1944年 京都出身
Ancienne équipe de football Japon équipe nationale
Professeur invité, Université Kyoto Bunkyo

Participé aux Jeux Olympiques de Tokyo à l'Université de Waseda. Ligue des universités pour quatre rois consécutifs. Après avoir été diplômé, j'ai rejoint Yanmar Diesel. 202 points dans le total de la ligue japonaise. Médaille de bronze remportée aux Jeux Olympiques mexicains de 1968, 7 buts. Japon national international A scores match 75 (passé 1ère place). International Un score de match de 0,98 est le numéro un mondial. Après avoir travaillé à la retraite, il a pris la direction de Yanmar Diesel Gamba Osaka. En 1995, a remporté l'élection de la Chambre des conseillers. De 1998 à juillet 2008, je serai vice-président de l'Association japonaise de football. En 2005, il a été élu l'équipe de football la plus jeune dans le premier Hall of Fame de football. En 2006, il est devenu professeur invité à l'Université de Kyoto Bunkyo. Nous avons déjà organisé plus de 1000 cours de soccer dans diverses régions du pays, depuis la retraite active jusqu'à aujourd'hui, et nous enseignons à plus de 500 000 enfants. Parmi eux, de nombreux enfants tels que Hidetoshi Nakada, Shunsuke Nakamura, Kawaguchi, Miyamoto, Inamoto, Daikoku, ont grandi pour devenir des joueurs nationaux japonais plus tard. En mai 2014 a reçu l'Asahi Naka Nakagori.

Photo d'interview / Hidemi Sakuma