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英雄たちが愛した歴史的スパイクVOL.58 「79年Wユース日本代表のWカップウィナー編」

前回ご紹介したプーマのユニークな固定式モデルに対し、そのころのアディダスの固定式最高峰モデル「ワールドカップウィナー」は、とてもオーソドックスなデザインのスパイクでした。このモデルは自国開催の特権で、1968年のメキシコ五輪以来久しぶりの国際大会に出場した1979年Wユース日本代表選手が使用していました。

Icône 29634314 1815368455432881 1085668874 oHiroaki Konishi | 2021/07/15
世界的コロナ禍ではありますが、欧州、南米のビッグイベントが無事終了し、多くのドラマが生まれました。特にメッシ選手率いるアルゼンチンのコパ・アメリカ優勝は、ご自身では達成できなかったディエゴ様もさぞお喜びだと思います。
コパ・ディエゴ・マラドーナの計画(欧州、南米チャンピョンの対決)もあるらしいですが、母国とナポリのあるイタリアの対戦は、ぜひ実現してほしいものです。

さて、もうすぐ東京五輪も開催されます。残念ながらサッカー日本代表は無観客の試合が多そうですが、ぜひとも68年メキシコ大会以来のメダル獲得を期待したいものです。

私が若いころ(70年代後半から90年代前半)は、W杯はおろか、五輪もユースも日本代表がアジア予選を突破して、本大会に出場したことがありませんでした。
唯一、自国開催だった79年のWユースが、日本の代表選手が世界レベルを経験し、その試合を日本人が目の前で見ることができた大会でした。
世界レベルを知らない若い選手たちの当時の過酷な強化合宿については図1のレジェンドが度々語られています(参考動画 Thumb efbc92Figure1 Wユース強化合宿時の水沼貴史選手。使用スパイクはアディダス「Wカップウィナー」。 

強化合宿は選手選考も兼ねて何度も(15回以上らしい)あったそうですが、最初と最後は徳島県の鳴門で行われたそうです。
宿泊は競技場の物置だったとか…。練習以外も過酷な時代だったようです(図2)。   Thumb efbc93Figure2 ゴール運びも選手、コーチたちがされていました。着替えは競技場通路だったようです。 

そんな過酷なトレーニングに耐え、最終選考をくぐり抜けた精鋭は、後の日本代表となり現在も日本サッカー界に大きく貢献されています。   Thumb efbc94図3 現・ツエーゲン金沢監督の柳下選手と、日本代表でも活躍された柱谷(兄)選手。 

本大会では残念ながら決勝トーナメントには進めませんでしたが、苦しいトレーニングに耐えた図1のレジェンドが日本代表唯一の得点を決めました。   Thumb efbc95図4 予選リーグ最終戦のメキシコ戦で先制ゴールを決めた水沼選手。ここまで1分け1敗で無得点だった日本代表が一矢報いた時のスパイクも「Wカップウィナー」でした。 

水沼選手はフル代表になった80年代でもコンスタントに活躍され、当時の日本代表ファンには心強い攻撃の切り札的存在でした。
 Thumb efbc96図5 ちなみに敗戦した初戦のスペイン戦はピッチコンディションの影響か、取替え式のワールドカップ78を履いていたようです。 

40年以上前のスパイクでも、取替え式なら今でも時々見つかるのですが、固定式の「Wカップウィナー」は見つけるのにかなり時間がかかりました。
 Thumb efbc97 Fig. 6 「Wカップウィナー」。ソールは劣化して剥がされた状態で入手しましたが、当時のまともなソールを使ってリペアしました。 Thumb efbc98La figure たまたま「Wカップウィナー」を2足入手できたので、当時の固定式最高峰モデルスーパーカップ仕様も作製していただきました(左)。どちらもコパムンディアルの発売後(83年ごろ)に廃版となり、短命だったため、今ではなかなか見つからないようです。 Thumb efbc99La figure シュータンのマークが青い西ドイツ製のWカップウィナーが廃版になった後も、オーストリア製のWカップウィナー(マークが黒)は80年代半ばぐらいまで製造されていたようです。 側面の「WORLD CUP WINNER」の印字の「WINNER」の位置がそれぞれ少し違います。 

ところで、水沼選手は1985年のメキシコW杯予選でも主力として活躍されましたが、国立競技場での伝説の日韓戦では不調で、アウェイではメンバー外になってしまいました(ご自身が当時のことを語られています
日韓戦前の2次予選・香港戦では木村和司選手と同様、所属チームの日産でふだん愛用していたアディダスのスパイクを黒塗りして履いていました(図9)。   Thumb efbc91efbc90図9 当時のサプライヤーだったプーマのユニフォームとスパイクで香港戦に挑む日本代表チーム。しかし、10番木村選手、12番水沼選手はアディダスのスパイクを黒塗りに、2番加藤選手はアシックスのモデルをプーマに見えるように改造していました。このころの詳しいことはIciS'il vous plaît voir. 

しかし、日韓戦でも、木村選手はかたくなにアディダス(コパムン)を履き続け、伝説のFKを決めましたが、水沼選手はその試合からデビューしたプーマのパラメヒコに替えてプレーされました。
Thumb efbc91efbc91図10 日韓戦の木村選手(左)と水沼選手(右)。水沼選手も履きなれたアディダスのスパイクを履いていればなあ…。  

さて、決勝トーナメントには進めなかった79年Wユース日本代表には高校生で出場していた選手もおられました(図11)。後に西ドイツのプロリーグでも活躍され、攻撃的チームの礎を作る指導者としても手腕を発揮されたレジェンドです。
   
 Thumb efbc91efbc92図11 79年Wユース代表の風間選手(当時清水商業)。大会後、移動用バスの前でファンに担がれています。予選敗退でもあたたかい…。今だったら…。ちょっと怖いですね。 バスの窓枠などが時代を感じさせます。 

今では自国開催の大会で予選リーグ敗退だったら何を言われるかわからないほど、日本のサッカーファンの目は肥えてきましたが、無観客の五輪でもプレッシャーを感じずにのびのびプレーしてほしいですね。 オリ・パラのすべての競技が無事に開催され、選手の皆さんが活躍されることを願うばかりです。    

(画像はサッカーダイジェスト、サッカーマガジン、イレブン、アフロ様などより転載させていただきました)